コラム

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2009/07/08

Nr.25 「ドイツ語のセンセイ」の恥ずかしい回想記 (3)

粂川 麻里生 (慶應義塾大学教授・独検実行委員)


似たようなご経験をお持ちの方も多いかと思いますが,小学校低学年の頃,私は「死」の観念にとりつかれました。何がきっかけか,分かりません。2歳の時には耳下腺炎で死にかけたそうですし,6歳の時には肺結核に罹ってひどく具合が悪くなり,何度も意識がもうろうとなりました。あるいはそのせいで,死ぬものとしてのわが身を見つめるようになったのかもしれません。あるいは,毎日学校に行かなければならないようになって,「時間」というものがまったく自分の自由にならないものだということが分かってきたからかもしれません。
とにかく,自分も,まわりの人々も,時間的にも空間的にもきわめて限られた存在だということがとても辛いことに思われたのでした。

「お父さん,人は皆死ぬの?」
「死ぬ?そうだなあ,まあ,最終的にはなあ」
「お父さんは死ぬのは怖くない?」
「そうなあ,まあ,ちょっとは怖いかな。でも,それほどでもないよ。お父さんはもう大人だし,いろいろ苦労もしているからな。戦争で,兄弟もみんな死んでしまった。お父さんがお前くらいだった頃,大切に思っていた家族は皆いなくなってしまったんだ。そういう思いをしているから,死というものに対して,少しは慣れている」
「死んだら,またお父さんの兄弟に会えるかな」
「そうなあ。分からないけどなあ。でもな,死んだらどうなるか,なんて考えるよりも,どのように生きるか,って考えるほうがずっと大切なんだ。生きがいをもって生きることができた人は,死ぬことも受け入れられるんじゃないかな」
「僕は,死ぬのは怖いな。誰かが死ぬのも怖い」
「まだまだ,お前は死なないよ。結核もほとんど治ったしな。お父さんやお母さんだって,お前が大きくなって,もっと強くなるまでは死なないさ」
「そう?」
「ああ」

そう言われても,私はやっぱり辛い気持ちでした。どれだけ楽しく遊んだ日でも,夕暮れになると,気分は激しく落ち込む一方でした。今考えますと,あれはうつ病と言ってもいい状態ではなかったかと思います。
「こうやって遊んだことも,皆過去になってしまう。百年もしないうちに,皆いなくなってしまうんだ。それに,そのうち人間だって滅びてしまう。地球だって,長い年月の果てにはなくなってしまう。宇宙の中で,人間なんてほんとに小さなものなんだ」
私がそんなふうに言いながら身をよじっているのを見ると,父は真面目な顔で言いました。
「お前がそうやって,人間の虚しさや命のはかなさを嘆いているのは,とてもいいことだ。今は辛いかもしれないが,そういう気持ちがあればこそ,生きがいというものも見つかるんだよ」

父は高校の国語教師(特に古文と漢文)で,柔道部の鬼監督としても知られていました。戦争で身寄りを失い苦労したこともあってか「苦しむことで,人は成長する」という人生観が徹底していました。
けれども,私はそんな父の言葉が信じられませんでした。あらゆる人が死ななければならないこと,あらゆるものが滅びなければならないという宇宙の非情な掟に対して,人間が何か納得のいく答えを考え出せるとは思えなかったのです。
母は,「苦しい気持ちの時は,日記をつけるといいのよ」と,大学ノートを買ってくれました。けれども,「人はなぜ死ぬのか」などという大問題を抱えた悩みを,小学生がどうやって日記に書けというのでしょう。ノートには,毎日,曲がった角を生やして黒い頭巾をかぶり,体が煙になっている「悩みのけむけむ悪魔」の顔だけが描かれるようになりました。

ある日私は,「こうなったら,自分で生命というものの正体をつきとめるしかない」と思いつきました。それ以来,私の部屋は「魔女の実験室」になりました。さまざまな虫の死骸,蛙,蛇,葉っぱや草,棒,さまざまな色の石などが,牛乳ビンやマッチ箱に入れられて,本棚に並びました。また,そういう妙なものが練りこまれた土団子が窓辺や部屋の奥に並び,水や牛乳,椿油などで毎日磨きをかけられました。私は,それらの「実験対象」を,学校から帰ってくると毎日観察しました。何か,「命の正体」を私に教えてくれる現象が起きていないか,見逃すまいとしたのです。

また私は,近くの林のできるだけ奥のほうに分け入って,みかん箱と棒切れを組み合わせて「お堂」を作りました。私は仏教系の幼稚園に通っていました(結核で中退しましたが)ので,お釈迦さまが生老病死の苦しみを乗り越えるために修行をし,ついに悟りを開いたという物語を知っていました。自分もどうにかして,悟りを開こうと思ったのです。
ただ,瞑想については当然ながら何の知識もありませんでしたから,ひたすら座って,「でやっ」,「とうっ」と気合をかけていました。心を静めたり澄ませたりするのではなく,気合一発でもって悟ろうとした「修行者」は,珍しいのではないでしょうか。

当然ながら,私は生命の秘密を解くことはできませんでしたし,お釈迦さまのような悟りを開くこともできませんでした。それでも,少しずつ「うつ」から脱出できたのは,その頃ちょうどスポーツに関心を持ち始めたおかげもあったように思います。結核を患っていたせいで,私は小学校4年生までは体育の授業はほとんど見学でした。お医者さんには「太陽にはあまり当たらないようにしてください」と言われていましたので,遊びも室内でできることばかりをしていました。遊び仲間も,自然と女の子が多くなりました。

それでも,5年生になると,ついにお医者さんから「完治」のお墨付きをもらいました。父は,「これで,“男の子らしい生活”をさせることができる」と思ったようです。それで「特訓」が始まりました。毎朝,早起きして鉄棒の練習。それが終わったら,近所を走って10周。週末は父の勤める高校の道場に連れていかれ,半日受身の練習をさせられたかと思えば,プールにも連れて行かれて,水泳の特訓も受けました。冬休みは,高校生のお兄さんたちとともに苗場にスキー合宿にも出かけました(これは,初日に足を骨折して,あとはずっとホテルでゲームをしていました。しめしめでした)。

私は比較的素直な子供でしたから,父に「お前はハンディを負っているんだから,人よりも努力をしなければいけないんだ」と言われれば,「なるほど,その通りだろう」と思って,特訓を受けていましたが,それにしても運動はおろか陽に当たることさえ禁じられていたもやしっ子が,急にスポーツが得意になるはずがありません。「自分のためだ」,「やらなくては」とは思っても,それは大変辛い時間でした。
それでも,私がなんとか父の「特訓」についていくことができたのは,当時いわゆる「スポ根」,つまりスポーツ根性マンガが流行っていたおかげもあったでしょう。たとえば私は,自分と父の姿を,『巨人の星』の星飛雄馬とその父一徹に重ね合わせていましたし,『アタックNo.1』のヒロイン鮎原こずえが「でも,涙がでちゃう。女の子だもん」と言うのを聞けば,「僕は,男だから,涙も流さないぞ」と思ったものでした。

もちろん,現実のスポーツ界のスーパースターである王や長嶋,大鵬にも憧れていました。ただ,私はなぜか,海外のスポーツヒーローにより心惹かれるものがありました。ちょうど,1970年代当時は,衛星中継というものが可能になった時代で,海外のスポーツの大イベントが,かなり粗い映像でではありましたが,テレビで実況中継されたのでした。私はむしろ,そのはっきりしない映像と音声で「日本のスポーツファンの皆さま,こんにちは。こちらは,アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴから……」などと聞くと,なんだかとてつもないものを目撃しようとしている気持ちになって,とても興奮したのでした。

なかでも,私のハートをわしづかみにしたのは,当時プロボクシング・ヘビー級のトップボクサーだったモハメド・アリでした。1972年のある日,私は,父がテレビでアリとそのライバルのケン・ノートンの試合を見ている横に座りました。このアリという人物は,あきれたもので,相手と激しく殴り合う間中,ずっとしゃべり続けていました。ラウンドが終わって,コーナーで1分間の休憩をしている間も,自分のコーチやリングサイドの観客たちと,ずっと大声でしゃべり続けているのです。実況アナウンサーによれば,アリは,「あんなパンチは,俺様にはまったく通じない!」,「俺様の美しい顔は,まったく傷つけることはできない!」,「俺様はチャンピオンで,最も偉大な男だ!」などと,傲岸不遜なことを言っているとのことでした。

テレビ解説者は「試合中に話すのは感心しませんがね」と,淡々と語っていましたが,私は別のことをたちまち理解しました。
「このアリという人は,こうやって自分自身を励ますとともに,追いつめているんだ。それで,最大の力を発揮しようとしているんだ。この人は,相手選手のことをものすごく恐れている。だから,あれだけしゃべらなければ,やっていられないんだ。アリが放っている迫力とエネルギーは,恐怖から出たものだ。それにしても,なんという迫力,なんというエネルギーだろう」
その時から,私にとってモハメド・アリは世界でもっとも注目すべき人物になりました。

当時は自覚していませんでしたが,私がアリの中に見て取った「恐怖」は,きっと私自身の「死」や「人生」に対する恐怖でもありました。恐怖や不安を,創造的なエネルギー,それも爆発的なエネルギーに変えることができることを,この歴史に残るチャンピオンは私に教えてくれたのでした。

やがて父は,私の強い関心に気づくと,このボクサーが特別な背景を持った人であることを教えてくれました。
「アリは,若い頃はそりゃもう,天才的なボクサーだった。無敗のままチャンピオンに君臨していたんだ。“蝶のように舞い,蜂のように刺す”って言ってな,誰もついてこられないようなスピードで動き回って,一発で相手を倒した。無敵だと思われたものさ。けれども,アリはベトナム戦争に反対して,軍隊の徴兵に応じなかった。それで,ボクサーのライセンスを奪われ,もちろんチャンピオンベルトも剥奪されてしまった。それで,4年近く,何もできなかった。それから,世の中が変わって,アリはまたボクシングができるようになった。もうアリは全盛ではないけれど,もう一度チャンピオンになろうとしているんだ。お父さんは,アリの大口は嫌いだが,それでもアリは尊敬できる人だと思う」

モハメド・アリを通して,私は「世界」に対して少しずつ目を開いてゆきました。何しろ,外国語を話す人をこんなに凝視したのは初めてのことでしたし,外国で起こっていることをテレビでこんなに一生懸命見たのも初めてでした。「死の不安」と「スポーツ」と「外国語」は,やがて私にとって複雑に絡み合った一体をなしていくのですが,それをお話しするためには,もう少し回り道をさせていただかなくてはなりません……。