コラム

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2009/10/08

Nr.27 ドイツ語圏 (15) スイスのドイツ語 (2)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


ヨーロッパへ行くと,CH という略語をつけた自動車をよく見かけます。CH はその自動車の国籍を示す標識,つまりそれがどの国のものかを示す標識です。たとえば D は「ドイツ」(Deutschland),ですし,F は「フランス」(France,Frankreich)を表します。しかし Ch… で始まる国名なんてあるでしょうか。アフリカに「チャド(Chad)」という国があることはありますが,その国の自動車がこんなに多数ヨーロッパの自動車道路を走りまわっているなんて考えられない。CH とよく似た CD という標識をつけて走っている自動車もありますが,これは大使館関係者の公用車で,CD はフランス語の Corps diplomatique 「外交団」の略です(もちろん CD は英語 Compact Disc の略でもありえますが,この場合は合いません)。さて CH とはどの国なのでしょうか?

実は CH というのは Confoederatio Helvetica というラテン語の C と H を組み合わせたもので,「スイス」を表す標識です。ご存知のように,ドイツ語で「スイス」を表す名詞は die Schweiz ですね(女性名詞であることに注意! in der Schweiz 「スイスでは」,in die Schweiz 「スイスへ」など,いつも定冠詞をつけて使われます)。「ドイツ」にも Deutschland という通称のほか,Bundesrepublik Deutschland 「ドイツ連邦共和国」という正式名称があるように,die Schweiz 「スイス」と呼ばれている国も,実はドイツ語で Schweizerische Eidgenossenschaft 「スイス盟約団体」という正式名称があります。Eid は「誓い」,「盟約」,Genossenschaft は「仲間」,「組合」,「団体」です。伝説によれば1291年8月1日,Habsburg 王家の支配強化に抵抗し,スイスの真ん中の三つの州(Kanton [カンーン])が相互防衛のための盟約を結びました。この盟約による結合・団結が,スイスの起源とされています(ついでながらHabsburg [ープスブルク]は,スイスでは[プスブルク]と最初の a を短く発音することもあります)。その後,この盟約に加わる地方が次第に増え,州の数は最初の三つから今では26になっています。

ところでスイスは南西のほうはフランス語圏,南はイタリア語圏に接し,北と北東のほうはドイツ語圏と境を接していますね。ドイツ語圏の人々,フランス語圏の人々,イタリア語圏の人々がそれぞれの母語を保持しながら Eidgenossenschaft に加わっているため,スイスの有名な多言語状態が生まれているのです。スイスでは現在,ドイツ語,フランス語,イタリア語,およびレトロマンス語の四つが公用語となっています。それぞれの言語の話者数は,ドイツ語が約490万人,フランス語が150万人,イタリア語が50万人,レトロマンス語3万8千人とされています。これを合計すると約690万人ですが,スイスの総人口は2009年7月現在で約770万人となっていますから,約80万人,総人口の約10%に当たる人々が,この四つの公用語以外の言語を母語とする人々であるということになります。これらの数字は資料によって異なりますし,私の計算もあまり信用できないので,まあ大まかな目安とお考えください。

スイスのドイツ語というテーマにすんなりと戻れなくなって,我ながらじれったいのですが,ラテン語,ドイツ語以外の言語で,スイスの正式名称「スイス盟約団体」がどう表されるかを記します。レトロマンス語というあまり馴染みのない言語が,国名で判断するかぎり,イタリア語によく似ていて,まさにロマンス語の一つであることがわかります。
フランス語 Confédération suisse
イタリア語 Confederazione Svizzera
レトロマンス語 Confederaziun svizra
この三つにドイツ語の Schweizerische Eidgenossenschaft を加えて,4通りの正式呼称があるわけですが,そのいずれにも優先的・特権的地位を与えないように,Confoederatio Helvetica というラテン語を共通の名称として使っていて,CH はその略というわけです。自動車だけでなく,たとえばメールアドレスで国籍を表す記号も,スイスは ch です。

さらにまた,この共通名称の後半部についても一言。切手収集家はもちろんご存知と思いますが,郵便切手上でのスイスの国名表記は,Schweiz でも Suisse でも Svizzera でも Svizra でありません。使われているのはラテン語の Helvetia で,これはかつてこの地方に住んでいたヘルヴェチア族にちなむ名称です。現在の四つの公用語のうち,どの一つを採用しても,他の三つに対して不公平になり ます。しかし公平を期して四つの名称を全部並べたくとも,切手には4ヶ国語を併記する余地がありません。やむを得ず,昔この地方に住んでいた部族の名前を 援用したわけです。

「スイスの」を表す形容詞は schweizerisch です。Schweizer という無変化の形容詞を使う場合もありますが,これらと並んで時々,Eidgenossenschaft,Helvetia に由来する形容詞 eidgenössisch,helvetisch を使うことがありますから注意が肝心です。たとえば有名な「チューリヒ工科大学」の正式名称は Eidgenössische Technische Hochschule Zürich (略称 ETH Zürich)です。あるいはスイスについての文のなかで,Eidgenössische / helvetische Eigentümlichkeit などという表現が出てくるかも知れませんが,これを「盟約的 / ヘルヴェチア的独自性」と訳すのは,間違いではありませんが,やはりじれったい訳です。「スイス的独自性」,「スイスならではの特質」という意味ですから,それを踏まえて適切な訳語を選びましょう。

四つの言葉が等しく公用語になっているといっても,べつにこの四つが同じ場所で入り乱れて使われるわけではありません。これに近いややこしい状況が見られるのは,有名な保養地ダヴォース*を持つカントーン・グラウビュンデンくらいだそうです。この山岳地方では,レトロマンス語を話す人々がいくつもの谷に分かれて暮らしていますが,話者数がきわめて僅かであるため,実際の社会生活においては,より多くの話者を持つドイツ語やイタリア語に頼らざるを得ません。これに対しドイツ語圏,フランス語圏,イタリア語圏では,それぞれより大きな言語圏にいわば「親方,日の丸」的に支えられて,安定した言語状況を示している…と思いきや,特にドイツ語圏では,標準ドイツ語とスイスドイツ語の並存の結果,きわめて紛糾した,緊張の多い状況になっています。このことに関しては,また次回。

* Davos は[ダヴォース]と発音されます。o は長音,アクセントは o の上に置かれます。Berlin [ルリン]ではなくて[ベアーン],Weimar [ワイマール]ではなくて[ァイマル],Nürnberg [ニュールンベルク]ではなくて[ニュルンベルク]などなど,アクセントや母音の長短を間違えたまま,日本語で普通に使われている地名や人名がほかにもたくさんありますね。日本語ではこれでべつにかまいませんが,母音の長短,アクセントなどを間違えると,ドイツ語ではわかってもらえないおそれがありますよ。