コラム

ここからページの本文です

2010/08/18

Nr.32 ドイツ語圏 (20) ドイツのドイツ語 (1)

諏訪 功 (一橋大学名誉教授・元独検出題委員)


今まで「オーストリアのドイツ語」と「スイスのドイツ語」についてお話ししてきましたが,そろそろ気を取り直して,ドイツ本国のドイツ語に話題を移すことにしましょう。

このコラムの第1回目と第2回目で,ドイツ語がべつにドイツ本国(ドイツ連邦共和国)だけで話されているわけでなく,オーストリアと,スイスの大部分でも話されていること,国境を越え,国籍を異にする数ヶ国の人々の母語であるという意味では,いわば国際的な言葉,国際語であることに注意を喚起しました。このような国際語の場合,発音,語彙,言い回しなどに関し,場所ごとにさまざまな違いが存在するのは当然であり,またその反面,このような違いをある程度,整理し,統一する必要があるのもまた当然です。ドイツ語の場合,この作業はある程度まで出来上がっていて,この整理・統一の結果,生まれたものが「標準ドイツ語」(Hochdeutsch[ホーホドイチュ])*と呼ばれているものです。しかし今までにお話ししたことからもおわかりと思いますが,この「標準ドイツ語」なるものは,さまざまな妥協と抽象化の産物と言うべきものであり,可能性としてはドイツ語圏のいたるところに存在していますが,現実にはドイツ語圏のどこにも存在していない,なんだか不思議なものなのです。

ドイツ語圏を鳥瞰する場合,地理的に中央にあるドイツ連邦共和国がドイツ語圏の中心,本家本元であり,オーストリアやスイスはただ地理的にその周辺に位置するに止まらず,言語上も周辺,辺境にあると考えがちです。たとえばオーストリア,スイス,および少数言語としてドイツ語が話されるいくつかの他の国は,しばしば Außengebiete der deutschen Hochsprache 「標準ドイツ語の外縁地帯」と言われ,他方,ドイツ本国のドイツ語は Binnendeutsch 「内部ドイツ語」** と言われることがありますが,この言い方の底には,「ドイツのドイツ語が標準であり,オーストリアやスイスのドイツ語は標準からの逸脱である」という暗黙の了解が潜んでいるように思われます。自分を中心として物事を見る,自分の慣れ親しんできたものと違うものは受け付けない … これはだれにでもあることですが,私のまったく個人的な体験を一般化して極論しますと,どうもこれはドイツ人に著しいようです。今回はこの点に関し,言葉と関連付けて,まったく無責任におしゃべりしましょう。

今から40年以上も前,私がボン大学で勉強していたころ,同じ学生寮にいたドイツ人学生が私の読んでいた日本語の本を覗き込み,しばらくしてから面白そうに「君たち日本人は裏表紙から本を読むんだな」と言いました。私が読んでいた本は,ごく普通の日本語の本で,行ごとに上から下へ縦に記され,左から右へページをめくっていく仕組みの本でした。行ごとに左から右へ進み,右から左へページをめくっていく横文字の本とはちょうど逆ですから,横文字の本しか見たことのない人には,日本の本はたしかに裏表紙から読み進んでいくように見えます。日本では自然科学系の学術書など,ドイツの本と同じく横組みで右から左へページをめくっていく仕組みの本もあります。文字の配列法に関しては,日本人は日本式の縦組みが唯一のやり方ではなく,同じように横組みもありうるということを知っていて,そのかぎりで,私の寮仲間だったドイツ人より,とらわれない,自由な見方ができている,と言ってもいいだろうと思います。どう言って彼の思い込みを訂正したかはもう覚えていません。ただ「文字の配列法に関して,君たちドイツ人は自分のやり方が唯一無二の正しいものだと思っているらしいが,それは間違っている。君は日本人が本を裏表紙から読む,と言ったが,それとまったく同程度の妥当性または非妥当性をもって,我々日本人は,ドイツ人は本を裏表紙から読む,と主張することもできるはずではないか」という趣旨のことを述べたところ,そのドイツ人が「そう言われれば確かにその通りだ」などと,妙に感心して,おとなしく引き下がってしまったことを覚えています。***

ついでですから,学生寮時代の思い出話をもう一つ。オランダの事実上の首都ハーグの近くの海岸に Scheveningen という保養地があります。できるだけ原音に近く日本語で表記すると[スーヴェニンゲ]となるでしょう。最後の n は発音されないことが多いようです。語頭音は[シェ]ではなく,[スヘー]で,この[へー]はのどの奥からかなり強く吐き出すように発音します。日本人の耳には[へー]よりは「ケー」に近く聞こえ,全体として[スーヴェニンゲ]→[助平]+[人間]と聞こえます。日本人の連想はどうでもいいのですが,オランダ人の友人を訪ねて,この保養地で年末年始をすごしてから,寮に戻り,寮の友人に「スヘーヴェニンゲに行ってきたよ」と言ったところ,「ああ,シェーヴェニンゲンか。オランダ人はなにしろヘンな発音をするからな」という答えが返ってきました。sch はドイツ語ではもっともありふれた子音結合で,辞書では Schabe 「ゴキブリ」から始まって Schwyzertütsch 「スイスドイツ語」に至るまで,sch [シュ]で始まる語が延々と並んでいます。独和辞典編集者の中には,S の項の中でも特に長いこの Sch,sch で始まる語をやっと終えたときの安堵感をなつかしく思い出す人もいるのではないでしょうか。また話が横道に入りかかったようなので,無理に本題に引き戻すと,この「オランダ人はヘンな発音をする」という発言も,「日本人は本を裏表紙から読む」という発言と同じく,自分の母語のやり方を唯一無二の正しいやり方と思い込んでいることの表れだと言えるかもしれません。次回はこの思い込みから出てくるさまざまな歪みについて,話を続けることにします。

* この Hoch,形容詞や動詞の前つづりとしてはもちろん小文字書きされて hoch は,[ーホ]と発音されます。つまり母音は長音です。最初の母音 o を短音にして Hochdeutsch を[ホドイチュ],あるいは勢いをつけて[ホッホドイチュ]と発音する人がよくいますが,それはいけません。ゆっくり[ーホ]と伸ばしてください。同じく Hochschule 「大学」は[ーホシューレ]であり,[ホシューレ]または[ホッホシューレ]ではありませんし,hoch|springen 「走り高跳びをする」は[ーホシュプリンゲン]であって,[ホシュプリンゲン]または[ホッホシュプリンゲン]ではありません。
蛇足: [ホ]と短く発音されるのは,「結婚式」という意味の Hochzeit [ホツァイト]およびその関連語においてのみです。Hoch- を長母音で発音して Hochzeit[ーホツァイト]とすると,「最盛期」,「栄光期」という別な単語になります。ただし面倒なことにスイスでは「結婚式」という意味の Hochzeit も,母音 o を長く発音して[ーホツァイト]とするそうです。

** binnen は合成名詞/ 複合名詞の構成要素として,「内陸」,「国内」,「域内」などの意味でよく用いられます。たとえば Binnenhafen は Seehafen 「海港」と対比して,河川や湖にある「内陸港」という意味ですし,Binnenhandel は Außenhandel 「貿易 / 対外通商」と対比して,「国内 / 域内通商」という意味です。

*** 日本では,横書きの場合,普通はこのコラムがそうであるように,左から右へ記しますが,ときには,とくに昔の日本語では,右から左に記してあることもあり ます。つまり「ドイツ語」と「語ツイド」,「乗車口」と「口車乗」とが入り乱れているわけで,いくらとらわれない,自由な態度と言っても,すこし困ることがありますね。縦書きと横書き以外にも,円形に文字をグルグル並べていく円環式というのもあり,さらには牛耕式と言って,左から右へ文字を並べていき,書く場所が無くなると折り返して右から左へ逆に進んでいく書き方をとる言語もあります。牛が犂を引いて畑の畝を耕すような筆記法なので,「牛耕式」(または「 犂耕体 ( すきこうたい ) 」)と言います。ドイツ語では中性名詞で das Bustrophedon,もともとはギリシャ語です。