コラム

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2018/02/19

Nr.49 ドイツの最北端?

富山 典彦(成城大学教授・独検実行委員)


若いときにはいろいろやってみるのもいいでしょう。ぼくにもたしかにその「若いとき」があり,ユーレイルパスを使ってドイツをあちこち駆け巡りました。それなのにドイツの首都ベルリンには行ったことがないという,衝撃の告白(コラムNr.39)をしてしまいましたが,それはもちろんドイツが東西に分かれていた時代のせいでもあります。

ところで,独検を受験してくださっている皆さんは,ドイツ文学についてどの程度の知識があるのでしょうか。ドイツの作家や詩人の作品をどのくらい読みましたか? 作品は読んでいないけれども,名前くらいは知っている作家や詩人はいますか?

ドイツ文学の道に進む以前に,ぼくは文学作品をいろいろ読みました。数え上げるとキリがない(というのは嘘ですが)作品に触れたなかで,テオドール・シュトルム Theodor Storm (1817~1888) がいます。シュトルムは日本でも人気のある作家です。いえ,知らない人が多いことでしょうから,「でした」と言うべきかもしれませんが。

旧制高校時代,ドイツ語は英語より人気のある外国語で,多くの生徒たちはドイツ語を学んだそうです。ぼくがドイツ語の教員になったとき,その大学にはなんと旧制高校時代の教授をなさっていた先生がいらっしゃいました。その先生からいろいろと旧制高校時代の,いわゆる古き良き時代のことをお伺いしたのですが,ドイツ語の基礎を学んだ旧制高校生たちが最初に読まされる作品がシュトルムの „Immensee“ だったそうです。

若き日のぼくもそれにならって,ドイツ語の授業で2年生の学生にこの作品を読ませて,大失敗しました。旧制高校時代と1980年代とではドイツ語に対する熱意が違っているということでしょうか。ぼく自身はこの作品をすでに岩波文庫の翻訳で読んでいましたが,この作品のタイトルわかりますか?

もとのドイツ語をそのまま訳せば『インメン湖』となるのですが,ドイツ語教育華やかなりし頃の翻訳者の先生は,『みづうみ』と訳されていたのです。さすがだなと今さらながら感心します。ドイツ・ロマン派の代表的詩人であるノヴァーリス Novalis (1772~1801) の未完の代表作,„Heinrich von Ofterdingen“ の日本語訳のタイトルは『青い花』ですが,これも見事です。

さて,シュトルムですが,ドイツ文学史では「詩的リアリズム」の作家に分類されています。„Immensee“『みづうみ』や „Viola Tricolor“『三色すみれ』をはじめとして多くの短編を残していますが,もちろん日本語にも翻訳されていて,さきほど言いましたように,日本ではドイツ文学の代表的な作家のひとりになっています。

しかし,彼が生まれたとき,彼の生まれたフーズム Husum という都市はドイツではなく,デンマーク王国にありました。彼が生まれたのは,1815年にウィーン会議が終わってヨーロッパがオーストリアのメッテルニヒのもと,旧体制に無理矢理戻されようとしていた時代でした。ドイツはまだ統一国家にはなっていなくて,オーストリア帝国とプロイセン王国とがドイツ諸邦の覇権を争っていました。

さて,フーズムという都市はどこにあるのかというと,ユトランド半島の南西部です。現在はユトランド半島の北部がデンマークで,南部がドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 Schleswig-Holstein になっています。海に突き出たこの半島は,西側が北海 Nordsee,東側がバルト海 Ostsee です。フーズムは北海に面した小さな町です。

最初のドイツ旅行でぼくはもちろん,フーズムにも行きました。シュトルム博物館にも行きましたが,なんとそこには,四つ葉のクローバーの押し花が展示されてありました。『みづうみ』にも四つ葉のクローバーが淡い初恋の思い出として登場しますから,それはシュトルム自身の体験だったのかもしれません。

故郷のフーズムを離れてベルリンで法学を学んだシュトルムですが,『みづうみ』の主人公も同じことをしています。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」の逆パターンで,久しぶりに故郷に戻った主人公は,初恋の幼なじみが婚約している現実に直面します。なんとなく涙を誘われてしまうのは,ぼく自身もこの主人公と同じような老人になったからでしょうか。

それはさておき,フーズムにまで行ったぼくは,さらに列車に乗ってドイツの最北端に行きました。北海沿いに走る鉄道は,デンマークの手前で左に大きくカーブして,海上に架かった橋を渡り,ズュルト島 Sylt に到着します。ここがドイツ最北端なのですが,「最北端」という言葉から連想される風景とは違って,トーマス・マン Thomas Mann の „Der Tod in Venedig“『ヴェニスに死す』に登場するリド島のような雰囲気の海辺の保養地でした。

がっかりしてすぐに引き返しましたが,これは夏だったからなのです。シュトルムの晩年の大作 „Der Schimmelreiter“『白馬の騎手』に描かれた冬の北海沿岸の凄まじさを想像すると,ここはやっぱりドイツ最北端。いつかその厳しい冬にまたシュトルムの故郷を訪れてみたいと思っているのですが。