コラム

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2020/12/11

山田廣明先生の訃報を受けて

中島 裕昭(東京学芸大学教授)


今夏,山田廣明先生の訃報を受けた。先年,叙勲(平成28年春,瑞宝中綬章)の栄誉を受けられた際,お祝いをさせていただいたのが,最後にお会いできた機会となってしまった。今年の状況から,多くの者がかけつけて見送ることはかなわないだろうが,そのようなことは先生自身,あまり望まれないかもしれない。が,山田先生の指導を少しでも受けたことのある者からすれば,ご冥福を祈りながら,さまざまな機会にかけられた言葉を思い起こし,研究者として,教育者として,自身の歩みをふりかえり,先生から与えられた示唆の重みをかみしめる機会としたいと思うのは自然なことだろう。

筆者にとっては山田先生からの支援は,まさに人生を左右する時に得られた,ありがたいものだった。大学院の指導教員としては細かく指示をされるタイプではなかったが,基盤的なところで研究活動を支えていただいた。ベルリン・フンボルト大学への留学を勧めていただいたのも先生からであった。ブレヒトを研究する筆者にとっては自然な選択のようにも見られるかもしれないが,当時(1987年から88年)の研究環境や国際的な研究文献へのアクセス可能性を知る人にとって,それは無条件に肯定的と考えられるものでもないことはご理解いただけると思う。しかし,言うまでもなく,このタイミングでの東ベルリンへの留学は,かけがえのない財産となった。そのような留学へと背中を押していただいた。留学を終えてからの仕事も紹介していただいたが,帰国前に履歴書等を提出しなければならないとき,筆者の家族まで連絡をいただいて助けていただいた。感謝してもしきれない。

山田先生は,博士課程在籍中の昭和32年に助手となり平成11年3月に教授として退任されるまで,40年以上にわたり早稲田大学に勤務し,日本におけるドイツ語・ドイツ文学の研究と教育に貢献されてきた。近現代小説が専門で,トーマス・マン,ヴィーラント,レッシングについて研究,戦後西ドイツを代表する小説家となったハインリヒ・ベルにいち早く注目し紹介するとともに,マックス・フォン・デア・グリューンらを中心とした旧ドイツ民主共和国の労働者文学運動も視野に入れ,後続の研究者にとっての里程となっただけでなく,ドイツ近現代文学に関する啓蒙的な文章も著された。昭和47年からは早稲田大学大学院文学研究科での指導を担当され,多くの後進研究者・教育者が先生に支えられながら育っている。

学界でもさまざまな業務を担い,旧ドイツ民主共和国との文化交流促進を目ざした「ワイマル友の会」では常任委員長として,財団法人ドイツ語学文学振興会では常務理事として,指導的な役割を果たされた。斯界の十年来の悲願であった「ドイツ語技能検定試験」創設にあたっては,その制度設計から実現にいたるまで,当時の早川東三理事長を支え,神品芳夫先生とともに中心的な責任者(独検担当理事)として,文字どおり東奔西走されたとうかがっている。先生の「経営」能力は関係者に一致して評価されており,独検は平成4年11月に第一回試験が行われ,その後,春秋二回の開催,検定レベルや試験会場の増設を経て,昨2019年も受験者1万人の規模を維持している。今日まで30年近くにわたって実施され,わが国における主要な語学検定試験の一つに成長・定着した。叙勲はこういった功績を評価されてのものと理解している。

山田先生が早稲田大学で教鞭を取られた時期は,おおむね学園紛争とその後の日本の高等教育建て直しの時期と重なっている。激しかった学生運動後の精神的空白とも言える時期に,研究と教育の両面での先生への信頼は大きく,後の大学近隣戸山地区への国立感染症研究所移転問題の際は文学部教員有志の中心的なメンバーとして,また予研裁判を支援する会の第二期代表として,運動の先頭に立たれた。このような社会的信頼は,先生の包容力を抜きにしては考えられない。筆者にとっての最初のドイツ語との出会いは,学部のドイツ語授業であったが,その授業担当者が山田先生であった。学期途中の最初の試験は落第点だった。それでもその後にまた試験のチャンスをいただき,文字通り救っていただいた。自身が大学教員の立場になって,「勉強する」ということへの主体的な取り組みがいかに難しいか,ということを痛感させられた。大学紛争後の当時も,将来の方向性の見えにくい今も,大学で学ぶということにどのような意味があるのか,二十歳前後の若者の多くにとっては,なかなか答えの出ない問いである。あのとき,筆者の態度が育つことを気長に待ってくれた山田先生の懐の深さは,筆者が今でも範とするものである。