コラム

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2022/04/05

Nr.59 ein echtes Bier って,どんなビール?(前編)

武井 香織(元筑波大学教授・公益財団法人ドイツ語学文学振興会理事)


ずいぶん前のことになりますが,大学でドイツ語を教えている先生達が集まって研修会を開きました。ちなみにドイツ語の教え方,つまり教授法(ドイツ語では Didaktik といいます)に関心を持って授業の改善に励んでいる先生は,日本にはたくさんいらっしゃることを皆さんに知っていただきたいと思います。

さてその研修会は,authentisch なテクストを使った授業,ということがテーマでした。authentisch とは日本語では「真正の」「正格の」と訳されている言葉で,社会での日常のコミュニケーションに使われている,という意味です。といっても少しわかりづらいかもしれませんが,authentisch ではないテクストとは何かを考えてもらえば,理解しやすいかもしれません。つまり,教科書のために著者が書き下ろしたような文章は,実際のコミュニケーションに使われてはいませんので,authentisch ではないことになります。

その逆に,新聞や雑誌の記事,広告の文面,街中の看板や掲示文などは authentisch ということになります。authentisch なテクストを外国語の習得に用いる利点は,そのテクストが現実の社会生活のコンテクストに嵌め込まれているために,テクストには直接書いていないさまざまな知識や情報が理解のためのヒントになることにあります。例えば新聞記事ですと,この単語はこんな政治の文脈で使われる言葉だから,テクスト全体ではこんな内容が書かれているのではないかと推測できます。むろんテクストが推測だけで完全に理解できるわけではありませんが,少なくとも考えをめぐらす範囲を大きく絞り込むことができます。

またテクストをきっかけに学習者が実際の社会生活の現場に居るかのようなシミュレーションが可能になりますので,能動的に言葉の世界に入っていくことができます。新聞記事の場合,読んだ後で自分はこの問題についてこう考える,意見を述べてみたい,議論してみたい,というモチベーションがわき起こるのですが,これが先生の作った教科書用のテクストだったら,そのような反応にはあまり現実感がありません。頭のいい学生さんなら,先生の期待していることを忖度していかにも先生に気に入られそうな答えを自分の意見として発表するかもしれません。

では小説や詩の場合はどうでしょうか。文学テクストは私は立派に authentisch なテクストであると考える立場ですが,これについては別の機会に書きたいと思います。

さて,このドイツ語教授法の研修会で,ある大学の先生が,ドイツのテレビで実際に放映されている CM を使って作った教材を披露しました。あるビール会社のもので,全体で1分ほどの長さです。その間パーティーの場面や屋外のビヤガーデンの光景が次々と出てきて,最後に次のようなキャッチコピーで締めくくられます。

Clausthaler hat alles, was ein echtes Bier braucht.

この文から文法の問題を仕立て上げようとすれば,英語の all that にあたる関係文 alles, was や中性名詞の前につくいわゆる混合変化の形容詞語尾 echt-es,物質名詞でありながら種類や銘柄を言う時には不定冠詞が付くことなどが聞き所になるでしょう。echt は独和辞典には「本物の」「純粋な」といった意味が載っています。こういった点を押さえたうえで直訳すれば,こんな感じでしょうか:

「クラウスターラーは,本物のビールに要求されるすべてを持っている。」

しかし,せっかく authentisch な教材を使うのですから,文法問題や直訳だけですませてはもったいないと思いませんか。テレビの CM で使われるキャッチコピーというのは,あれやこれやの方法で見る人に商品を買おうという気持ちを起こさせるのが目的で作られているものです。言うならば修辞の可能性を最大限に追求した,きわめて文学的なテクストなのです。だから直訳で伝わる意味のレベルとは別に,商品の良さをアピールし,受け手の心に買う気を起こさせる意図が入っているはずです。

そこで,この教材を作成した先生は,
「クラウスターラーというビールはどんなビールだと思いますか?」
という設問を用意しました。

みなさんもどんなビールなのか想像してみてください。
続きは次回に…。