コラム

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Nr.1 独検小史 (1)


独検が始まったのは1992年であるから,まだその歴史は長いとはいえない。しかし四半世紀を過ぎたところで,過去を振り返り,独検成立のいきさつや,独検が軌道に乗るまでの足取り,そしてその後の発展などを,記録と記憶が散逸してしまわないうちに書きとめておこうと思う。独検を受けた方やこれから受けようかなという方にも,独検の歴史にはどんな問題があったのか,関係する人たちのどんな苦労や熱い思いがあったのかを,読んでいただけるようにしておきたいのだ。

独検はなかなか始まらなかった。英検や仏検が大きな成果を上げているのに,独検をやろうという声が上がってこなかった原因は,主としてそれまでのドイツ語教育の体質そのものにあった。明治期以来の日本の高等教育の体系では,ドイツ語は学術研究と人間形成に役立つ言語という位置づけであり,旧制の高等学校のカリキュラムでは,主要科目になっていた。戦後の新制大学でも,やや薄められた形ではあるが,そのシステムは踏襲された。ドイツ語は第二外国語の筆頭という地位を保っていた。ドイツ語は大学生に教えれば十分であるという考え方が,ドイツ語の先生たちのあいだでも一般的であった。

しかし1970年代以降日本の外国語教育にも急激な変化の波が押し寄せてきた。国際共通語としての英語教育の改革が叫ばれ,第二外国語では中国語の台頭がめざましく,学術と教養の言語とされてきたドイツ語の存在価値が低下した。一方,世界のさまざまな国の人々と交流し,それぞれの国の文化を思い思いの角度から知ろうという意欲は,大学生と一般市民とを問わず,新たな広がりを見せてきた。ドイツ語もそのなかの重要な一言語として,新たな位置づけがなされた。そんな情勢のもと,ドイツ語においても,すべてのドイツ語学習者に門戸を開いて実施する検定試験を始めるべきだという気運がようやく高まってきた。

ドイツ語学文学振興会の理事会で,理事の神品芳夫が振興会主催で独検を実施することを初めて提案したのは1983年のことであった。そのとき特に反対はなかったが,それまで手がけたこともない大がかりな事業と考えられたので,慎重に検討を要するということになった。しかしその後振興会は,1990年に初めて東京で開催することが決まった国際ドイツ語学文学学会(IVG)の共催団体として,その募金活動と財務を担当することになったので,独検に関する検討はそれが終わるまで先送りされた。

独検開始のタイミングとしては,この5年の先送りは痛かったが,国際学会の台所を受け持つという大きな仕事を立派に果たした経験は,次の大きな仕事に入っていくには都合のよい地ならしとなった。

1991年5月,振興会の理事会のあと,理事の山田広明は,大病からやっと回復したばかりの神品を,「話がある」と別の席に誘った。山田は腰をおろすなり言った。
「IVG は終わった。今度は独検だよ」