コラム

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Nr.2 独検小史 (2)


当時早稲田大学教授であった山田広明は,ドイツ文学研究者にしては経営感覚を備えた実行力のある人物だった。独検の実施を最初に提案したものの,具体的な方策を立てかねていた神品芳夫は,強力な同志の出現を喜んだ。二人の話し合いによってさまざまなアイデアが生まれ,独検のイメージが急に実現可能なものとして浮かんできた。

しかもドイツ語学文学振興会の当時の理事長は学習院大学学長の早川東三であり,彼は長くNHKのテレビドイツ語講座の講師もしていたから,ドイツ語教育者として全国的に名を知られており,独検を発足させる団体の責任者としては打ってつけの人物だった。もちろん早川理事長は独検の実現には全面的に賛成で,山田と神品のもくろみを支援しつつ,その成行きに注目していた。

もう一人,当初から独検の実現を願って二人に親身に助言をしていたのが,東京大学を定年退職後成城大学教授をしていた濱川祥枝である。彼の勧めにしたがって,二人は仏検の事務局を訪ねて,仏検を支えている先生方や事務長から検定試験実施の問題点を詳しく教えてもらった。仏検の先生方は,独検の登場によって主要な外国語が出揃い,検定試験全体の安定感が増すとして,独検の参加を歓迎してくれた。「ドイツ語の人口は多いのだから,独検が始まったら仏検はすぐ追い越されますよ」という仏検の先生の言葉に送られて,そんなことはあり得ないとは思いつつも,いよいよやる気を固めて二人は帰ってきた。ドイツ語学文学振興会の理事会は,山田・神品の提案を受けて,1992年度から独検を実施する目標を立て,二人に郁文堂専務(当時)の大井敏行が加わって,実施にかかる経費と出動人員の概算を行なうこととなった。しかし,独検は少数の有志だけで運営できるものではない。多くのドイツ語ドイツ文学の関係者の賛同と協力がなければ実現はできない。そこでまず,日本独文学会の過去10年間の役員経験者にアンケートを出し,実施計画の概略を示して,独検実施への賛否を求めた。

アンケートの結果は,227の回答のうち,賛成213,反対14であった。この結果をもとに,ドイツ語学文学振興会は評議員会を開き,独検実施を会として正式に決定することを提案した。評議員の間からは,「振興会の目的は研究助成であり,独検実施は筋が違う」「多くの受験者を期待できない」「ゲーテ・インスティトゥートが検定試験をやっているから,それで十分ではないか」「大学のドイツ語授業へのマイナスの影響が心配」等の疑義が出されたが,早川理事長は議論の果てに,臆することなく実施への承認を求め,ついに決定した。

独検の正式名称は「ドイツ語技能検定試験」とし,第1回の試験を1992年11月23日に実施することが確定。残る準備期間は事実上半年。その間に募金,試験会場,事務局,試験問題の基準,後援の依頼等々,後回しできないことが山ほどある。本当に間に合うのか,心配になってきた。