コラム

ここからページの本文です

2017/12/03

早川東三元理事長を偲ぶ

神品 芳夫 (公益財団法人ドイツ語学文学振興会 元理事)


戦後日本のドイツ語界の体質改善と維持発展に最も貢献した人の一人である早川東三氏が,八十八歳で逝去された。早川氏といえば,早くから学習院大学の教授として,またNHKのドイツ語講座講師としてドイツ語教育の第一線に立ち,さらに学習院大学の文学部長,学長,学習院女子大学学長を歴任して大学運営に献身し,同時に日本独文学会の渉外理事と理事長(現在の会長にあたる)を務めて,とりわけ国際交流の面で学会の機動力を高めることに貢献した。

さらにもう一つ早川氏には際立った実績がある。それはドイツ語学文学振興会の理事長として1992年一般向けの「ドイツ語技能検定試験(独検)」を発足させたことである。

独検は振興会の設立当初の趣旨には全く含まれていない事業だった。しかしドイツ語教育をめぐる環境がきびしさを増すなか,財団法人の資格を有する振興会が独検を立ち上げるのは急務だという情勢になった。しかし当時の理事会はそんな大事業をやれるようなメンバー構成にはなっていなかった。山田広明氏が熱意を示して独検担当を引き受け,私も誘い込まれたが,二人とも検定試験については経験も知識も乏しく,早川理事長は学長ゆえに超多忙で,時間がなかった。山田氏と私は試行錯誤を繰り返しながら,独検実施へのハードルを一つ一つ超え,早川理事長は後方にあって内外の調整に当たり,ときには担当理事二人を激励するため飲みに連れて行ってくれた。

ここ一番というところで早川氏が「長」としての力を発揮するのをまざまざと見たのは,「独検小史」にも書かれているが,独検の実施に踏み切ることを決めた評議員会でのことである。評議員会はいわばご意見番の先生たちの集まりで,ここでの承認が得られないと独検は実施できない。各評議員からは,受験者が集まらないのではないかという危惧や,問題作成や試験場設営などによる各大学の先生たちの負担増への不安などがこもごも訴えられて,私などは内心,実施は見送りになりそうだと落胆していたのだが,さまざまな懸念や疑念がほぼ出尽くしたのを見計らって早川理事長は「いろいろ問題はありますが,来年度から実施することにしようと思います。よろしいでしょうね」と,既定方針のまま平然と提議すると,もう敢えて反対する声は上がらず,独検実施はすんなり決定したのだった。

あのとき早川理事長が独検実施を一思いに決定しようとしたについては,彼自身が直面しているドイツ語教育のきびしい現実が彼の背中をつよく押していたのだと思う。文部省(現在の文部科学省)による大学設置基準の大綱化が施行(1991年)されて以来,全国の大学では,財政的な理由からも,第二外国語履修の縮小あるいは廃止が進んでいた。その傾向は伝統的に外国語教育を重視している国公立および私立の大学にもじわじわと及んでいた。学習院大学も例外ではなく,しかもドイツ語の顔ともいうべき早川氏が学長の任にあるときに,各学部で第二外国語を必修の枠からはずす措置が取られた。桜井和市先生の時代には到底考えられなかったような決定を学長として承認せざるを得ない早川氏は,断腸の思いであっただろう。そのように気持ちのうえで追い詰められていた早川理事長であるからこそ,ドイツ語教育に新しい道を拓く可能性のある独検の実施に躊躇なくゴーサインの旗を振ったのだと思う。

遡って考えれば,第二次世界大戦後,ドイツ語をめぐる環境は大きく変化した。明治期以来アカデミックな言語と見られていたドイツ語も,戦後はほかの言語と同じく人間交流のためのコミュニケーション言語とならざるを得なかった。早期の留学経験をもとにして書かれた早川氏の著書『じゃぱん紳士』(1961年刊)は,ドイツで暮らす日本人が陥る失敗などを面白おかしく語ってベストセラーとなった。ちょうどそのころ始まったNHKのドイツ語講座を長く担当して,早川氏はコミュニケーション言語としてのドイツ語教育の寵児となった。

しかし大学教育の固定された大枠のなかでは,従来のアカデミックな言語教育と新たなコミュニケーション言語教育をどのように組み合わせていくのか,それはほとんど解決不可能な難題である。それでも独検,教授法改革,国際交流など,さまざまな改革を実践して,私たちは斜陽産業の体質改善に努めてきた。いつもその中核にあってみんなといっしょに尽力していた早川氏にも,晩年苦渋の表情が見られるようになった。

お疲れさまでした,早川さん,どうか安らかにお眠りください。

  合掌